オスプレイ沖縄配備に思う

オスプレイ沖縄配備に思う

 

沖縄・首里日雇労働組合

 

 9月26日から開始されたオスプレイ配備阻止連続闘争は、27日から30日にかけて普天間基地の主要なゲートを次々封鎖し、29日夕方から30日昼過ぎまで完全封鎖をかちとった。封鎖の瞬間、仲間たちは拍手喝采し誰彼なしに閉ざされたゲートの前に駆け寄った。「県」警が機動隊を大量動員し30日中に強制排除されはしたが、参加者は本当に全力で闘った。
 10月1日午前11時過ぎ、沖縄の青い空に灰色の異様な機体がやってきた。私達はこの時、普天間基地野嵩ゲート前で本当に悔しい気持ちを抱えてシュプレヒコールの輪に加わっていたが、不思議なくらい挫折感はなかった。
 普天間基地返還の闘いは、オスプレイ配備実力阻止闘争の高揚によって新たなステージに立ったといっていいだろう。ここでは簡単にオスプレイ配備問題を振り返り、9月26日から30日までの普天間基地ゲート前実力封鎖の闘いの記録とその中で感じたことを書き留めておきたい。

隠されたオスプレイ配備

 

 そもそも、オスプレイの沖縄配備は、普天間基地の名護市辺野古への「移設」問題とそれへの抵抗闘争の中で一つひとつ明らかになってきた。「移設」といっても正しくは「新基地建設」である。老朽化した普天間基地の返還をダシにして、基地機能を大幅に強化した新たな軍事要塞を造ってしまうことに日・米両政府の狙いがあったのである。その焦点のひとつがオスプレイ配備問題であった。闘う仲間は、一つひとつ事実をつきつけ日本政府を追及してきた。
 しかし不思議なことに、沖縄においてオスプレイ問題は長らく多くの人々にとって必ずしも常識とはなっていなかった。政府が隠したからである。名護新基地建設に関する「環境影響評価(アセスメント)」の「方法書」にも「準備書」にも記載はない。どのように隠蔽されたのか。ここでは「辺野古アセス訴訟」における高見澤証言を紹介する。
 同訴訟は、「環境アセス」の「方法書からのやり直し」などを求めた裁判で、2012年3月5日、防衛研究所の所長・高見澤将林(のぶしげ)が証言台に立った。高見澤は1996年当時、防衛施設庁の防衛政策局長としてオスプレイの沖縄配備を隠蔽した責任者と目される人物である。普天間基地の「代替施設」である「海上施設」を「沖縄本島の東海岸沖に建設する」とした「沖縄に関する日米特別行動委員会(SACO)」の最終報告を出した1996年当時、日・米両政府はオスプレイの沖縄配備をめぐって議論を交わしていた。米政府は配備の早期公表を求めたが、日本政府はそれを拒否していた。このとき高見澤は、地元沖縄からの問い合わせに対する「想定問答集」を在日米軍に届けていた。通称「タカミザワ文書」と呼ばれるものである。それは日本政府が米側にオスプレイ配備に関する議論を「沖縄には黙っていてくれ」と頼む証拠となる文書である。それを問いただすために原告側が高見澤を証人請求していたのである。
 高見澤は弁護士の追及に対し「タカミザワ文書」について日本政府が作成したものか、米側が作成したものか答えられず、「公務員の守秘義務」に逃げ込んだ。その意味について真喜志好一氏は次のように解説している。「国会答弁どおりに『アメリカ側の文書です』と答えるとどうなるか。ウソを述べたことになり、『偽証罪』に問われる。『想定問答は日本政府が作った文書です』と正直に答えると、1996年の時点でオスプレイの配備を日本政府が知っていたとの証言になる。『方法書』『準備書』でオスプレイを隠して『短距離で離発着できる航空機』などと書いたのは『虚偽記載』ということになり、辺野古の『環境アセス』がガラガラと根底から崩れる」(「オスプレイ配備の危険性」・七つ森書館より抜粋)。オスプレイ配備の事実は日本政府によって意図的に隠されてきたのである。
 その一方で、米側は政府も軍もオスプレイ配備にたびたび言及してきた。2011年6月には米国防総省は、「MV22オスプレイを来年後半に普天間基地に配備する方針」を表明した。これをうけて沖縄防衛局は「県」および関係各市町村に普天間基地への配備を伝達した。住民が意見する機会のない「環境アセス」の「評価書」で初めてオスプレイ配備が記載された。そして高見澤の隠蔽工作から16年、配備のわずか約3ヵ月前の2012年6月末に、米側の「接受国通報」をうけて政府―防衛省は普天間基地への配備と10月本格運用を突きつけるに至った。そして、その2日後、オスプレイを載せた輸送船が米本土を出港した。
 オスプレイ配備問題には日本政府のウソとだましとゴリ押しの手口が集約されている。このような手口を沖縄の民衆は決して許さない。

 

オスプレイの危険性

 

 日・米両政府は、何故、そうまでしてオスプレイ配備を急ぐのか。それは、米大統領・オバマがアジア・太平洋への米軍戦力・兵力の重点配備へと軍事戦略を転換すると言い出し、首相・野田が「動的防衛力」構想を打ち出したからだ。オスプレイの最大速度は現行配備のCH46の約2倍、兵員輸送力は2倍、貨物の搭載量も約3倍で、航続距離は約5・5倍とされている。とりわけ問題なのは作戦行動半径で、約600キロ、CH46の約4倍であり、空中給油をすれば、1回の補給で約1100キロ延ばすことができるという。これは、強襲揚陸艦に乗せて洋上で出撃すれば、朝鮮半島のはるか南方からでも、平壌への電撃強襲作戦を行なうことができるということを意味する。オスプレイの配備によって米海兵隊の展開能力は飛躍的に高まるのだ。
 沖縄においてオスプレイ問題が常識にまで高まったのは、「オスプレイが危険である」ということが共有化されたからだ。今年に入り4月モロッコで、6月には米フロリダ州で、オスプレイが相次いで墜落した。構造的欠陥を有するオスプレイは開発段階から運用段階まで数々の事故を引き起こしてきた。例えば、オスプレイはヘリコプターに当然備わっているオートローテーション機能がない。オートローテーションとは「エンジン停止のトラブルが起こった時に機体が降下する際の上昇気流を利用して回転翼を回して揚力を得て比較的ソフトに着陸する機能」のことである。少なくとも製造元と海兵隊は、オートローテーション機能が十分にあるとは言っていない。製造元のボーイング社が出しているガイドブックには「エンジン停止の際の緊急着陸に際してはオートローテーションに頼らない」と記されている。また、米軍の訓練マニュアルには既存のCH46輸送ヘリではオートローテーションの実機訓練が明記されているが、オスプレイでは除外されていたことが報じられている。沖縄側にオスプレイの「安全性」を説明する立場にある日本政府の閣僚のみが「オートローテーション機能は十分にある」と答弁しているのである。ここでもまたウソとだましなのだ。そもそも、普天間基地は市街地の中にある。「安全性」を追求すること自体がマンガなのである。「世界一危険な普天間基地に欠陥機オスプレイの配備を許さない」が合言葉となっていった。

 

配備阻止闘争の広がり

 

 沖縄では辺野古と高江で座り込み闘争が続いている。オスプレイ問題はこうした闘いの現場において早くから指摘されていたが、オスプレイ反対運動を沖縄から全国へ拡大させる機運が高まってきたのはここ1年くらいではないだろうか。
 高江住民は「高江ヘリパッドはオスプレイパッドである」と暴露し、高江ヘリパッド建設阻止の座り込み闘争をオスプレイ配備阻止と一つのものであると訴えてきた。辺野古で闘う仲間は名護新基地がオスプレイ基地として狙われていることを強調し、「オスプレイ配備を止めれば、名護新基地建設は必要なくなる」と訴えた。
 今年6月以降、日・米両政府によるオスプレイ配備のゴリ押しが明確になる中で、闘う仲間はゲート前での集会、座り込み、情宣行動などあらゆる運動を展開し、オスプレイ配備阻止の機運を高めてきた。「県」議会および全各市町村議会で配備反対の決議が採択された。しかし、実はこの頃、私達は正直焦りを感じていた。なぜなら六月から七月前半まで必ずしも市民の関心が高まっているようには感じられなかったからである。しかし、闘う仲間の頑張りと「琉球新報」と「沖縄タイムス」の2紙が競いあうようにして機体の構造的欠陥や訓練の実態などを紙面で暴露したこともあり、やがて「欠陥機オスプレイ」は誰もが知ることとなる。7月後半になると、街頭情宣でも市民の圧倒的な関心と反対運動への共感が確実に拡大していることを実感することができた。
 8月5日開催の「オスプレイ配備に反対する沖縄県民大会」は台風で延期となったが、盛り下がるどころかますます怒りが拡大し、9月9日開催の「県民大会」には10万人を超える民衆が結集した。

 

実力闘争にかけた断固阻止への思い

 

 これまでにも「県民大会」は何度も行われてきた。今回の「県民大会」はこれまでのような運動の「到達点」として語られるのではなく、「出発点」と位置づけられたことが大きく異なっていた。市民団体もこれまでは「県民大会への最大結集」と「大会後の上京要請団への参加」にとどまっていたが、今回はそのような空気は初めからなかった。一般的な「反対」ではなく具体的な「阻止」が追求された。抗議集会では「身体をはった闘い」、「普天間基地をズタズタにするような闘い」、「逮捕も辞さず闘おう」などと呼びかけられた。このことはオスプレイ配備阻止闘争の大きな特徴だと言っていいだろう。
 そもそも、1995年に発生した米兵による「少女暴行事件」を契機とした怒りの爆発を直接の出発点とした普天間基地解体・名護新基地建設阻止の闘いは、実力闘争を抜きに語ることはできない。辺野古においては2004年4月から陸上―海上貫く実力闘争でボーリング地質調査を実力阻止。また、高江では2007年7月より座り込みが始まり、とりわけ2010年12月から翌年2月末までの闘いは激しさを極めた。これらは幾人ものケガ人を出しながらも「身体をはった闘い」として闘われてきた。こうした闘いで自信と団結を強めてきた仲間が、オスプレイ配備実力阻止を呼びかけ、大きな闘いを実現したのである。
 「平和学習」「平和運動」というと一見穏やかなものがイメージされるが、仲間が、家族が、軍隊によって命の危険にさらされた時、「身体をはった闘い」が頑として登場する沖縄の運動にあらためて学びたい思いがする。

 

反基地運動の継承

 

 もうひとつの特徴は、「高齢者」「年金組」と自らを語る先輩たちが、奮闘に次ぐ奮闘を重ねたことだ。先輩たちのある意味なりふり構わぬ決起が、オスプレイ配備実力阻止の大きな闘いを実現する原動力であったといえる。
 米軍占領下の闘い、そして復帰以降の諸闘争を先頭に立って闘いぬいてきた先輩たちは、各集会で1959年6月30日に起きた宮森小学校でのジェット機墜落事故や、1970年12月20日に起きたコザ決起などを実体験として語り、オスプレイ配備をゴリ押しする日・米両政府への激しい怒りをたたきつけた。戦場体験、米軍占領下での屈辱、そして復帰以降の国家権力の横暴に立ち向かってきたメンバーが「高齢者は腹をくくって闘おう」という声をあげた時、何人もの仲間が基地機能の停止をめざし行動を開始した。
 8月15日から一坪反戦地主会関東ブロックの上原成信さんと元教員の小橋川さんのお二人が、米四軍調整官のいるキャンプ瑞慶覧前でハンガーストライキに起ちあがった。直接伺ったところによれば、二人は普天間基地大山ゲート前で行なわれていた「県民大会」参加を呼びかける情宣行動の場で出会い、意気投合してハンスト決起を決めたという。また、オスプレイ配備が迫った9月20日には大山ゲートに近い交差点で、玉城さんが横断幕を持って米軍車両の前に立ちふさがった。
 若い世代にとって大きな衝撃をもって受け取られている事件に、2004年8月13日に起きた沖縄国際大学へのヘリ墜落がある。あのとき3万人が結集した宜野湾市民大会で発言した中学生は「ヘリ墜落は最後の警告」と発言した。先輩たちは「二度目はない」として、実力闘争に決起した。そして、これに応えた多くの若い世代が実力闘争に決起した。ゲート前集会である青年が「子供が大きくなった時、基地はあってほしくない」、「普天間基地を今なくすために頑張りたい」と語った時、それは闘いが継承される瞬間であったと感じた。諸先輩が闘いの歴史を振り返ることだけにとどまらず、それを実力闘争に結実し次の世代に継承しようと決起した勇気と決断に、私達は敬意を表したい。

9・26―30ゲート前封鎖の闘い

 

〈9月26日〉
 午前7時、野嵩ゲート前において「県民大会」実行委員会が主催する反対集会が開催される。沖縄平和市民連絡会や普天間爆音訴訟団など市民団体を中心に参加者が結集し、「no osprey」と書かれたプラカードを持って抗議した。また、ゲート前の横断歩道に座り込んだり、障害物をはさんで軍雇用ガードマンとやりあったりするなど、あちこちで闘いが始まった。午前中の集会でヘリ基地反対協の安次富浩氏が「ゲートを封鎖して基地機能をマヒさせる闘いに起ち上がる」、「弾圧を踏み越えて闘おう」と檄を飛ばした。ゲート前は終日緊迫した状況が続いた。

〈27日〉
 前日に引き続き野嵩ゲート前に結集。国が「県」と関係自治体に対し「28日にも配備する」と通告してきたこと、「気象条件で遅れることもあるが、沖縄の声を聞き入れたわけではないと言外に示唆した」ことに怒りが沸き起こる。「県民大会」実行委員会主催の集会後、すぐにゲート実力封鎖のデモを仕掛けた。午前11時には参加者がいっせいに障害物を乗り越えゲート前になだれ込んだ。警察はごぼう抜きするも繰り返し突撃するメンバーを排除しきれず、ついにゲート前道路の一角を確保。約40人が座り込んだ。夕方、米軍がゲートを閉めると、拍手喝采のもとゲート前抗議集会が開催された。
 この日早朝、大山ゲートでは40人ほどの有志でゲート前座り込みと車の牛歩戦術で米軍車両の基地への出入りを混乱に陥れている。

〈28日〉
 野嵩ゲート前での抗議集会の後、大山ゲートへ移動。9時半、メンバーが一挙にゲート前に駆け込んで座り込む。10時頃、ごぼう抜きが始まった。15分ほどの攻防を耐えぬき、ついに米軍が自らゲートを閉じた。大きな拍手と歓声が鳴りやまなかった。現場指揮者は「主要3つのゲートのうち、われわれは2つを封鎖した」と宣言した。
 11時過ぎ、米軍はゲートの片側を開けようとするが座り込む仲間が警察と衝突し道路の中央線を確保。終日ゲートを開けさせることはなかった。この日の衝突で肋骨にひびが入るなどのケガ人が出た。
 午後より台風接近のため雨風が強まる。18時半「台風が明けたら再びこの場に結集しよう」と誓い合い、行動を終えていった。野嵩ゲートでは泊まり込み態勢がとられた。

〈29日〉
 暴風の中、16時半頃、大山ゲート前に車4台を止めてゲートを封鎖。その後車は増え、計12台でゲート前を完全に封鎖―占拠した。佐真下ゲートや宜野湾市役所に近い第4ゲートも封鎖し、普天間基地の機能停止を強制した。泊まり込みでゲート封鎖を貫徹。夜には第4ゲート前が緊迫し、米兵と直接対峙するなかでゲート内に引っ張られそうになる仲間もいた。

〈30日〉
 朝7時に大山ゲートに結集。10時から各ゲートの状況が報告される。弁護士は「ここは提供用地で国内法が及ばない。基地内であれば刑特法があるがここはフェンス外。排除の根拠がない。県警のごぼう抜きは違法行為」と説明し闘いを鼓舞した。その間、機動隊バスや装甲車など警察車両が10台以上集まる。昼の集会では「明日オスプレイが来ようとしている。配備するならすべての基地のゲートを封鎖して出ていってもらおう」と呼びかけられた。
 13時半、盾を持った機動隊が襲撃。車と車の間に座り込んだメンバーを次々力づくで排除し、歩道の一角に封じ込める。熾烈な攻防があちこちで展開され、車はレッカー移動された。米軍はブルドーザーまで準備していた。15時前、最後の車が撤去された。総括集会では現場指揮者が「普天間基地を解放するまで気丈に闘う」、「われわれの心をズタズタにすることを許さない」、「心が折れる仲間をつくってはいけない」と訴えた。
 16時前、今度は野嵩ゲートで攻防が開始される。四台の車を停車、その隙間に座り込んだ。「日の丸」を掲げた右翼が登場しカメラ撮影など敵対行為に出るが断固粉砕した。18時過ぎ、ごぼう抜きが始まる。排除されたメンバーは機動隊とバスに囲まれた一角に押し込められた。ケガ人が次々と救急車で搬送された。必死の抵抗に警察は攻めきれず機動隊を増員。車の上に乗ったメンバーの抵抗に、警察はゲート内のメンバーを押し出してバリケード封鎖し排除。総括集会が終わったとき、時計は23時半を過ぎていた。

 10月1日11時7分、オスプレイ一番機が普天間基地に着陸した。「県民大会」実行委員会の音頭で「配備を許さないぞ」、「沖縄の空を飛ぶな」、「撤回まで頑張ろう」とシュプレヒコールが行なわれた。司会者から「オスプレイは住宅地上空で旋回し着陸した。初日から『合意』を踏みにじった」と説明を受けた。日本政府はオスプレイ配備に関して数々のウソをついてきたが、これはウソではないだろうと思った。「県民大会」実行委員会の首長や議員らは全6機の着陸が確認されると、そそくさと帰って行った。翌日も3機が着陸し、「県民大会」実行委員会のゲート前抗議行動は終結した。
 オスプレイ強行配備に悔しい気持ちでいっぱいだが挫折感はない。それは、あの激闘をともに闘いぬいた仲間たちがいるからだ。何かあれば、いつでもあの場所に座り込むことができるからだ。怒りがおさまることはない。沖縄の民衆は、ゲート前封鎖をかちとった団結をもってさらに大きな力を蓄え、普天間基地を解放する闘いをつくり出していくだろう。