元全日自労中央執行委員長 中西五洲氏に聞く

      中西 五洲氏
      中西 五洲氏

中西五洲氏(元全日自労中央執行委員長)に聞く

 

 「戦後労働運動の限界の根底的突破」を目指す全労交にとって注目すべき闘いとして「ニコヨン労働者」と呼ばれた失業対策事業で働く労働者(失対労働者)の組合=「全日本自由労働組合」(全日自労)の闘いがある。この全日自労の中央執行委員長を3期・18年間にわたって務められた中西五洲氏を10月初旬、三重県松阪市に訪ね、全日自労の闘いの教訓や現在の日本労働運動への提言をいただいた。
 
失業対策事業と全日自労

 

 失業対策事業(失対事業)はGHQの占領下にあった1949年に制定された「緊急失業対策法」(1996年廃止)にもとづいて行なわれた。当時は産業が壊滅的状態であり、レッド・パージ旋風が吹き荒れ、「定員法」による公務員の大量首切りが強行され、労働者の3人に1人が定職に就けない大量失業時代であり、失業問題は最大の政治問題の一つであった。
 失業していた労働者は失対事業の開始にともない全国の職安に登録し、国の直轄事業として実施される失業対策事業に就労し、道路整備などの仕事に汗を流し、日払いの賃金で一日一日を生き延びた。「ニコヨン」の呼び名は職安が労働者に払う一日の賃金が240円で、100円札2枚と10円札4枚であったことからきている。ちなみに、現在、東京・山谷で実施されている東京都の「特別就労事業」は、この失対事業を先例としたものであり、日雇い労働者の雇用保険制度として今も行なわれている就労した日に印紙を貼り印紙の枚数によって「アブレ金」(求職者給付金)を受け取る「白手帳」制度も同様である。

 全日自労は1947年に結成された「全日本土建一般労働組合」(全日土建)を前身とし、1952年に名称を「全日本自由労働組合」(全日自労)に変更した。
 中西氏は全日自労の運動を「レッド・パージされた活動家たちと社会の底辺で失業・半失業に苦しむ人たちとの合作という意味合いをもっていた」と言われている。全日自労は最大時23万人を組織し、総評傘下の単組としては自治労、日教組に次ぐ組織人員であった。1952年、建設職人部門と失対労働者部門を分離するという全日土建の決定をうけて独立した全日自労の初の全国大会で中西氏は29歳の若さで中央執行委員長に就任されている。その闘いは、「25日就労」を要求して300人の逮捕者を出しながらも勝利した「松阪職安闘争」や、「公務員並み年末手当」「監督制度廃止―労働組合の職場委員会による自主管理」を実現させるなどの画期的地平を築いた。また、戦後最大の労働争議である三井・三池闘争の支援にも地元・大牟田市の組織や全国の組織が決起した。
 賃上げを要求して全国から1000人を動員した労働省交渉や、当時の首相・池田勇人の私邸への押しかけ闘争をくり広げていた全日自労の闘いと組織の前進に対して、政府は「失対事業打ち切り」攻撃によって全日自労に対する組織破壊攻撃をかけた。政府の失対事業打ち切りの理由は「非能率であり、いつまでも失対事業に滞留する。事業吸収方式を再検討する」というものであった。1962年、池田政府は失対事業への新規の就労を制限する法案を上程した。この失対打ち切り攻撃に対する反対運動は国会のすべての議事を1ヵ月にわたってストップさせる闘いとなったが、自民党は3分の2を超える議席の力で強行採決した。この攻撃は闘う労働組合破壊攻撃として中曽根政府が仕掛けた「国鉄分割・民営化」―総評解散攻撃の先鞭であった。
 「失対事業打ち切り」攻撃との対決のなかから中西氏は労働者協同組合運動を提起され、労働者による「自主生産」「自主運営」事業の重要性を強調されている。
 現在、世界大恐慌爆発情勢が深化し、1929年の世界大恐慌時に匹敵する大失業時代に突入している。このような情勢のなかで全日自労と中西氏が主張した「公的就労事業の必要性」「生活保護への依存を生み出してはならない」「現在の雇用保険制度は短期失業を想定している」といった内容は現在も重要なものである。

失業対策事業の土木作業でスコップを振るう労働者
失業対策事業の土木作業でスコップを振るう労働者

マルクス主義研究会から「ニコヨン労働者」の労働組合へ

 

――全労交に結集する若い世代の労働者は失対事業や全日自労の闘いを知らない労働者もいます。中西さんからお話を聞き、伝えたいと思いますのでよろしくお願いします。

  「はい、いいですよ」。

――まず初めに、1943年、法政大学在学中に朝鮮人留学生とやっておられたマルクス主義研究会を理由に治安維持法で逮捕され、釈放後の1950年に郷里・松阪で三重自由労働組合から活動を始められましたが、印象に残っている闘いは何ですか。

  「松阪職安に対する闘いです」。

――どういう闘いだったのですか?「『1ヵ月に25日就労させろ』と要求した闘いです。この闘いでは組合員が300人も逮捕されました。指導していた私は留置場で『これで組合は分裂するだろう』とあきらめていました。しかし、組合は分裂するどころか、見事に団結し、弾圧をはねのけました。この経験から私は『大衆を信頼すること』を学びました」。

――そのような経験をされた中西さんが労働組合運動を闘っていくうえで基本とすべきことは何とお考えですか。

 「資本主義体制は失業と貧乏と戦争を必ずもたらすものだということをしっかり押さえること。労働者が資本主義体制を作り変えるために闘うことは不可避だということです。私は失業と貧乏と戦争に反対する闘いに全知全能をかたむけました」。

 

資本主義を終わらせる壮大な事業にこそロマンがある

 

――中西さんは著作のなかで「労働組合運動にはロマンがある」と書かれています。労働組合とロマンとはイメージとして結びつかないように感じますが、どういうことでしょうか。

 「資本主義体制は人類を滅亡させていくものです。労働者が資本主義体制を作り変えるために闘うということは、人類を滅亡から救うという意味を持っています。これは壮大な事業です。その壮大な事業を実現するための組織である労働組合の闘いにロマンがあるということです」。

――資本主義体制を作り変えるために労働者が習得すべきことを著作のなかで述べておられますね。

 「労働者みずからが管理をおぼえ、運営をおぼえ、そういう力を作っていく営みが必要です。私が失対事業打ち切り攻撃のなかで力を入れた労働者協同組合運動はそれを目指したものです」。

 

 日本労働運動への提言

 

――現在の日本の労働組合運動をどう見ておられますか。

 「私が担った全日自労への破壊攻撃や『国鉄分割・民営化』攻撃が仕掛けられ、労使協調の内容で労働戦線が統一され、『非正規雇用』が拡大するなど、非常に困難ななかにあると見ています」。

――困難な状況を突破する鍵は何とお考えですか。

  「大衆を信頼すること。資本主義体制を終わらせ、協同の社会を作るという『ロマン』を実現するために執着し続ければ道は切り開かれると思います」。

――特に集中すべきことは何とお考えですか。

  「一つには、職場から生きいきとした運動を構築すること。二つには、未組織の労働者を組織すること。三つには新たなセンターの構築だと考えています」。

――今日はどうもありがとうございました。全労交に結集する労働者へのメッセージをお願いします。

 「全労交は、『戦後労働運動の限界を根底的に突破すること』を目標にしていると聞きました。私も全日自労の運動を階級的な労働運動にすることを目指しました。私は今91歳ですが、100歳まで生きることを目標にしています。全労交の健闘を期待します」。

――どうもありがとうございました。 (山崎)

 

〈中西五洲氏の略歴〉

 1922年、三重県生まれの中西氏は東京・太田で旋盤工として働き、1943年に法政大学で朝鮮人留学生と行なっていたマルクス主義研究会を理由として治安維持法で逮捕され、獄中で敗戦を迎えた。

 1945年10月、マッカーサー指令により釈放され、1950年に「失対に入って労働運動をやってみては」という友人からの提案をうけて失対事業に就労し、当時の日給167円に「お盆手当500円」を松阪市に要求することから闘いを開始した。

 全日自労中央執行委員長(三期・一八年)

 世界労連執行局員

 統一労組懇常任代表委員

 中高年雇用・福祉事業団全国協議会理事長

 三重県民生協理事長

 を歴任

  主な著作

 『労働組合のロマン』(労働旬報社・一九八六年)など