寄稿・「沖縄現代史のなかの『精神障害者』」(上)

寄稿・「沖縄現代史のなかの『精神障害者』」

 

下地大輔(天皇上陸阻止沖縄青年実行委員会)

 

沖縄と「精神障害者」問題

 

 沖縄というと、日本「本土」の人たちは、どういうイメージを抱かれるだろうか?「癒しの島」、あるいは「南国の楽園」といったところだろうか。しかし現実は、在日米軍基地の約75パーセントが集中する「基地の島」である。そしてこれに抵抗する「闘う人民の島」でもある。
 ただし、沖縄の問題というと、とかくこうした基地問題だけがクローズアップされがちである。だが実は、沖縄の基地問題は、沖縄が抱えているもう一つの深刻な問題と密接に繋がっているのである。
 それは「障害者」問題である。特に「精神障害者」の問題は、基地問題の陰に隠されてしまって忘れられがちである。沖縄における「精神病」の発症率は、ここでは細かい数字の列挙は控えるが、全国平均よりも明らかに高い。それはなぜなのか?
 その直接的な原因となっているのが、米軍基地が集中する結果をもたらしたあの「沖縄戦」なのである。沖縄戦は「国内」で唯一、地元住民を巻き込んだ凄絶な地上戦だった。約20万人が死亡した。当時の沖縄の総人口の3分の1、実に3人に1人が死に追いやられたのである。約3ヵ月間に渡るこの地上戦で、沖縄全土はそのほとんどが灰塵と化した。沖縄労働者人民の多くが生産手段、生活手段を丸ごと失い、生きる糧を占領軍の米軍からの配給物資のみに頼らざるをえないような生活を強いられたのである。辛うじて生き残っても、身体を焼かれた人や、爆弾の破片や銃弾が食い込んだ人、手足を失った人も数多く、それにも増して多かったのが、過酷な戦争体験をしたり、かけがえのない家族や親戚、知人を失ったりして、心に深い傷を負った人たち、すなわち「精神病」を患った人たちだったのである。
 日本「本土」が戦後、現行憲法のもとに、ある程度の社会的落ち着きを取り戻し、復興が進み、人心もそれなりの平穏と活力を取り戻していく過程においても、沖縄は、「本土」のそれらの「民主化政策」から切り離され、米軍の軍事占領下で一切の権利を剥奪された社会状況が続いていたのである。そのなかで、身体に「障害」を負った人たちや、とりわけ「精神障害者」は、何らの医学的治療も社会福祉も施されず、放置されたままだった。
 「本土」が高度経済成長期に入った過程においても、郷土の大半を米軍に基地として占領された沖縄は、あらゆる産業構造の発展を阻害され、多くの人々がその日の暮らしにも事欠く状態であった。働く場が著しく限られ、生活の糧が思うように得られない沖縄労働者人民は、せっかく沖縄戦という地獄を生き延びた後も、その精神的苦痛から「精神病」を発病する人が後を絶たなかった。1972年の「返還」直前に、その状況を聞いた「本土」派遣の医師たちにより、初めて本格的な精神医療が開始されたのである。

 

根深い「精神障害者」差別

 

 「沖縄返還」直前の71年から「返還」の72年にかけて、「本土」から派遣されてきた医師たちは複数いたようだが(正確な数、各医師の正確な名前は不明)、中でもひと際沖縄の精神医療に多大な貢献をし、「沖縄精神医療の先進的な改革者」と言われていのが、島成郎である。島は、東大時代、60年安保闘争時の全学連書記長である。島は来沖と同時に、離島各地に足を運ぶようになる。そこで沖縄における「精神障害者」の扱いを、典型的な形で目にするのである。
 よく、沖縄の人は緩やかだと言われる。しかし、沖縄民衆の「精神障害者」に対する姿勢は、「本土」と何ら変わらない。いやそれ以上に、劣悪な生活環境を彼ら、彼女らに強いていた。その多くは、家族や親族等の手によって、家屋敷の片隅に格子をはめた小屋や、あるいは奥の座敷牢の中に閉じ込められていたのである。
 一見緩やかに見える沖縄の民衆が、なぜこれほどまでの酷い扱いをしたのだろうか?
 それは、沖縄社会に元々からある家族・親族制度に原因があると、私は推測している。沖縄の家族・親族の多くは、「門中」(もんちゅう)と呼ばれる一つの大親族制度にもとづいて構成されている。例えば「上原」という苗字の門中があるとしよう。その中で死者が出た場合、巨大な亀甲墓と呼ばれる墓に埋葬される。長さ数メ―トルにも及ぶ箱のような墓である。ただし、親族であれば誰でも入れるという訳ではない。自殺者や、「不逞」を働き時の統治者に処罰された者などは、入れないのである。そういった慣習の下では、当然、「精神障害者」は歓迎されない。墓には埋葬する。だがそれは、人目には触れず、家族・親族のみでひっそりと行なわれる。
 一般的に沖縄の葬式は、大きなセレモニーのように映る。ごく一般の平凡な庶民の葬式でさえ、その死者と僅かでも交流のあった者は必ず出席する。個人的な話だが、私の父方の祖母が95歳で亡くなったが、焼香の参列者は500人以上にも達した。ちなみに祖母は、平凡な農民であった。ところがその数年前に、40年以上「精神病」を患うやはり父方の親族の60代の男性が亡くなった時には、参列者は家族・親族のみの僅か数人であった。
 この数の差は何を意味しているのか?それは、沖縄戦以前の遥か昔から続く、「精神障害者」に対する差別的な人間観・死生観に基づいているのである。恥ずべき者、排斥すべき者、それが「精神障害者」観なのである。それは、他の「障害」をもつ人に対する見方、接し方とも異なるようである。その根深い「精神障害者」差別を含んでいる沖縄文化を、私は、独立論者たちのように手放しで評価することができないのである。

(続きは次号に掲載します)