全国寄せ場で越年・越冬(沖縄)

沖日労の炊き出しには多くの労働者が結集した(与儀公園)
沖日労の炊き出しには多くの労働者が結集した(与儀公園)

12・31~1・2

炊き出し・労働相談に集中的に取り組む


      沖縄・首里日雇労働組合


 12月31日から1月2日にかけて、沖縄・首里日雇労働組合は那覇市内の公園などで炊き出し・労働相談を実施した。この2014―2015年越年闘争の準備は11月末から始められた。沖日労は、11月30日に準備会を開催し、仲間たちと活発な討論を行なった。昨年の反省点などを再確認しつつ、支援の呼びかけ、買い出し、炊事・配食などの態勢を整えた。仲間からは新たなメニューも提案された。12月に入ると、越年闘争への結集を呼びかけるビラ撒き情宣を本格化し、寄せ場にとどまらず市内各所の公園まわりも行なわれた。街頭カンパ活動には仲間たちも積極的に参加した。首里の寄せ場の現状などが訴えられ、それを聴いた市民から多数のカンパと共感が寄せられた。中にはわざわざ電話して「カンパをして協力したい」と申し出る市民もいた。準備段階から新たな仲間も加わり、3日間の越年闘争に突入したのである。

 炊き出しは、朝は首里の寄せ場、昼は与儀公園、夜は平和通りで行なわれた。12月31日昼の与儀公園では、沖日労のメンバーがハンドマイクとビラ配布で呼びかけを行なうと仲間たちが続々と結集する。配食前に集まった仲間たちを前に全国寄せ場からの連帯メッセージが読み上げられる。「山谷の労働者の場合、名目賃金である民間の『デズラ』はこの5年間、据え置きされたままで、物価高の結果、より大勢の山谷労働者は飢餓線上に投げ出されています」「越年闘争を闘いぬいた力で安倍政府、そして右翼ファシストどもにおれたちの怒りをたたきつけていこう」(東京・山日労)、「2015年は新基地建設阻止の決戦の年だ。その時に一番強いのは、失うものを持たない日雇い・野宿の労働者だ。日雇い・野宿の労働者こそが実力闘争の最先頭に起とう。決戦攻防には、おれたち福日労も現地に駆けつける決意だ」(福日労)、「大阪市長・橋下による野宿労働者おいだし、日雇い・寄せ場労働運動つぶしの『西成特区構想』を粉砕します」(反戦・反失業を闘う釜ヶ崎労働者の会)。夜の平和通りでは、仲間たちが互いに声を掛け合い、指定の場所に集合していた。それだけ沖日労の取り組みが浸透してきているということであり、仲間たちも率先して協力しようという姿勢を示しているのである。その場で組合運動をめぐるさまざまな意見交換も行われた。

 1月1日朝の首里の寄せ場は、少なかったものの、昼の与儀公園は、さらに多くの仲間が各所から集まっていた。準備した弁当とおにぎりはあっという間になくなった。風が強くかなり冷え込んだため、ある仲間は「冷蔵庫の中にいるようだ」と震える。準備したカイロも次々と手渡される。体調を壊している仲間も少なくなく、可能な限り対処した。この日、沖日労は新年の決意を訴えた。「辺野古は勝負の年だ。辺野古闘争に全力を尽くそう」「安倍政府と対決し、若い世代に〝こうあるべき〟という闘いを示そう」「『困った時に助け合える組合づくり』『解決力のある組合運動』を推進しよう」。日雇い・野宿の仲間は真剣に耳を傾ける。

 最終日の2日昼には、衣類放出も行なわれる。配食をすすんで手伝ってくれる仲間もいる。地域で闘う労働者から連帯あいさつも受けていく。「大変な不景気だが大同団結して頑張っていきましょう」。口下手な仲間も次第に顔馴染みとなり、組合に声をかけてくる。「現金収入がなくて困っている」「何年かぶりに東京から戻ったが知り合いもなく野宿生活をしている」といった相談も寄せられる。「ビラ撒きなどやる時は手伝いたい」と申し出る仲間もいた。

 沖日労は、3日間で延べ230食以上を配食した。昨年と比べて約40食増である。今回の越年闘争で明らかとなったことは、比較的若い世代が職探しに戸惑い厳しい生活に追いやられていることである。公園まわりではまだ20代のウチナンチュ青年が野宿生活をしていることもあった。沖縄経済は「好況」が宣伝されているが、日雇い・野宿の仲間にとって厳しい現状に変わりはないのである。われわれは、越年闘争を闘いぬいた地平に立って、2015年の激闘を全力で闘いぬく決意である。全国の寄せ場労働者の闘いと連帯し、「反戦・仕事よこせ」の闘いを推進する。名護新基地建設阻止の辺野古現地闘争に全力決起する。