1・11
佐藤さん虐殺三〇ヵ年 山岡さん虐殺二九ヵ年弾劾! 金町一家解体!
日雇い労働者全国総決起集会・デモ
2014四~2015五年越年・越冬闘争を全国の寄せ場で闘いぬいた日雇い労働者、支援の労働者たちが1月11日、東京・山谷に結集し、佐藤さん・山岡さんの命を奪った金町一家に対する報復の闘いに起ち上がった。
1984年当時、金町一家による山谷支配に反撃して日雇い労働運動が大きく躍進しつつあった。そのことに危機感を抱く金町一家は、山谷支援のためにドキュメンタリー映画を準備していた映画監督・佐藤満夫さん、そして山谷争議団の中心的なメンバーだった山岡強一さんを相次いで虐殺した。だが、山谷の労働者は金町一家に対してすぐさま怒りを爆発させたのだ。東京・山谷日雇労働組合は、日雇全協・山谷争議団が対金町戦を放棄する中で、毎週金曜朝行動、そして2・11「建国記念の日」粉砕の山谷朝行動を貫徹してきた。
1月11日の午前5時、まだ夜明け前の城北労働・福祉センター(センター)前に、東京・山日労の組合員たちが集まって、この日の闘いのための情宣、炊き出しの準備の作業を開始する。
7時、山谷通りに登場した全国寄せ場交流会は、「1・11日雇い労働者全国総決起集会と山谷の戦闘的なデモに結集しよう」と訴えた。情宣を聞きつけた山谷労働者が一人、また一人とセンター前に向かった。そして、炊き出しのカマドから湯気が立ち込める中、赤鉢巻をきりりとしめた仲間たちが腹ごしらえのメシを平らげる。
9時、炊き出しの後片付けもすんで、仲間たちが整列して玉姫公園に向かって一歩、足を踏み出した。すると国家権力・浅草警察は、「無届デモはやめろ」と妨害をたくらむ。だが、仲間たちは「ワッショイ、ワッショイ」と声を上げ、玉姫公園に進撃していく。玉姫公園で待っていた山谷の仲間たちが全国寄せ場交流会の姿を見つけるとすぐにその隊列へと加わってきた。
集会場の前列には佐藤さん、山岡さんの遺影が飾られ、各寄せ場の赤旗、支援の労組の赤旗が横一列に立ち並んだ。
午前10時、満を持して集会が始まった。シュプレヒコールをあげた後、佐藤さん、山岡さんの遺影に向かって集会参加者一同が黙祷をささげる。
そしてまず、この日の闘いに寄せられた沖縄・首里日雇労働組合と元国鉄労働者・全国労働組合運動交流会顧問の佐久間忠夫氏からの連帯メッセージが読み上げられる。佐久間氏は、「いま、私は病気と闘っています。病床にあっても、闘志は決して衰えることはありません」「国鉄分割・民営化を仕掛けた中曽根よりも今の安倍政府はより右寄りの政府です」「勢いづく右翼などの動きに対抗し、労働者の未来をかけた闘いとして、本日の闘争の成功を祈っております」。
東京都地域連合労働組合、反安保労研全国センター、全国学生社会思想研究会連合からの連帯あいさつが行なわれる。
東京・山日労の委員長が闘いの基調を提起する。
集会の最後は、全国の寄せ場からの決意表明だ。
集会を終え、いよいよ山谷を席巻するデモに出発だ。横断幕を先頭にして全国寄せ場交流会の部隊が会場内を一周すると、そのまま公園から路上へと進撃を開始する。明治通りにデモ隊が進むと、併進していた機動隊はいっそう過剰な規制を加え始めた。この通り沿いには金町一家の組事務所があるのだが、ヤクザの番犬と化した浅警―機動隊は、組事務所に至る路地入口に盾を構えて、阻止線を張っている。「早く進め、停滞するな」なぞと公安デカどもや機動隊がわめき散らすが、デモ隊は堂々と金町一家に対して怒りのシュプレヒコールをたたきつけていく。泪橋交差点を山谷通りに左折して、浅草警察のマンモス交番前では、再び隊列を止め「金町とつるむマンモス交番を許さんぞ!」とシュプレヒコールをあげていった。そして、デモ終点の玉姫公園に近づくと、仲間同志がスクラムを固く組みなおし、「ワッショイ、ワッショイ」と駆け足の歩調で進撃する。公園入り口脇で楯を構える機動隊に肉迫する戦闘的なデモをやり抜いた。 〈東京・山谷日雇労働組合〉