熊本被災地ボランティア雑感
福岡・築港日雇労働組合 鈴木ギャー
〈まえがき〉
中学生の時から築港の寄せ場で大人たちに混じって働き、阪神大震災の時から災害ボランティア活動にかかわっているAさんのもとで、熊本の被災地・益城におけるボランティア活動にかかわった。私自身、神戸・長田の南駒栄公園での炊き出し、東北・関東大震災現地でのボランティア活動にかかわったことがあるが、いつも現地の人びととのかかわりの不十分性に、満たされない思いを抱いていた。3・11後の毎月の福島通いをはじめ、広島におけるボランティア活動など、さまざまな被災現地での人びとの生活に立脚した活動に従事しているAさんの「何とかしなくちゃ」という思いの強さとその行動力とが、現地の人びとにどんどん受け入れられていく様を目の当たりにし、自分たちのかかわりようしだいで、そこから何かが生み出せるのではないかという可能性に触れることができた。同時に、被災者の抱えるさまざまな悩み・迷いなどに触れ、しかもサントリーやヰセキ農機などの大工場を誘致することによって潤う町の財政と、そのもとで存在している町に暮らす人びとのさまざまな葛藤に触れることもできた。決して「知ったかぶり」をするつもりなぞはないが、わずか3日間であるにもかかわらず、Aさんのおかげで、さまざまな問題が浮き彫りになり、とても勉強になるとともに、さらに「がんばらなくちゃ」というやる気に火のつく、中身の濃い3日間であった。被災地に暮らす人にとって、100人いるなら100人の、1000人いるなら1000人の悩みと要望があるわけであって、組合で「熊本の被災地にかかわろう」と確認した上で行なったボランティア活動の第1回目ではあるとは言え、個人的にも、今後もさらに地道にかかわりを強めていきたいと思えた3日間であり、組合の他の仲間たちにも是非ともかかわりを持ってもらいたいと思っている。
〈第1日目〉
6月24日夜、福岡を出発し、10時過ぎに現地到着。受け入れてくれているBさん夫妻にあいさつをし、「3・11を忘れない」と書いた帽子をかぶり、すぐに町内のパトロールに出発。震災から2ヵ月が経つというのに、暗闇のなかに崩れた家屋、片側に倒れた家屋、一階部分が同じ方向に傾いているいくつもの家屋が次から次へと現れ、震災直後と何も変わらない風景が広がる。こうした家屋の傍らには、車を停め寝泊りする人びとや、テントなどで暮らす人びとが多く存在する。生活の在りようはさまざまな、こうした人びとの役に立てばと、降りしきる雨の中、車を走らせるのだ。ちなみに、雨が降っていなければ、歩いてまわるようである。何でこのようなことをするのかという問いへの答えは、単純明快である。「行政が見てまわらんからですよ」。
2日前からの大雨で、各地に被害が出ている。「行政は、どこも、前の災害を教訓化しない」というのがAさんの実感だ。行政間どころか社会福祉協議会によるボランティア・センター間の連携すら取れていないというのもAさんの実感だ。その後、何人ものボランティアの人たちの声を聞くと、このAさんの実感が本当だということに納得する。せっかく「被災者のために、少しでも役に立てれば」という思いでボランティアにやって来た人々を、活用することなく帰してしまうのが、各地の「ボラセン」(ボランティア・センターの略。このように呼ばれているので、以降この名称を使用)では、しょっちゅう行なわれている。次の日の作業の打ち合わせのために、総合体育館に出向く。このような大きな避難所にすら町役場の職員は一人しかおらず、あとは他所の県などからの派遣職員でまかなわれている。この人達は、ホテルに寝床を確保している。しかし、「ボラセン」を通して肉体労働に従事するボランティアたちのほとんどは、車の中で寝泊りするなどして、汗を流して働いているのだ(避難所で働く大きな組織のボランティアに対する評価は後述)。
被災地支援活動における衣食住面で一番気にかけるのが、トイレ・水の確保、続いて食料、その後に寝床となるのだろう。今は、町なかに工事現場やイベント時などで使う簡易トイレも置かれ、仮設の共同水道も敷かれてはいるが、まだまだトイレと水については、気を使い、苦労させられる点である。Aさんも、はじめのうちは、すべて持ち込みであった。水や食料について持っていくのはあたり前であるにしても、持ち運び式の簡易トイレまで準備するという気の使いように頭が下がる。被災者に一切の負担をかけないというのが、ボランティア活動の基本である。食品などを販売するスーパーなども店を開き、お弁当類などはどこも売り切れしてしまうほどの盛況ぶりである。この夜は、遅い時間にもかかわらず、次の日に開業する準備で大忙しの「益城復興市場・屋台村」のスタッフにひと声かけるために立ち寄った。
夜も更け、B夫妻をはじめ地域の人の声を聞く。Aさんの「ボランティア・センター」は、B夫妻の好意で、駐車場を借りて開設している。Bさんたち自身、となりに建っていた家が全壊する中でのテント暮らしである。「お母さん」のほうは、最近小さなプレハブが建てられ、そこで寝泊りしている。みんな駐車場のスペースであり、まわりは手付かずのガレキの山と化している。AさんとBさんの出会いは、震災直後、まだ余震がくり返されている時に、大渋滞のなか福岡から車を走らせてやってきたAさんが、道路がふさがれている町なかを歩いて出会うことができた間柄であるという。何十年来の旧知の仲であるような信頼感が伝わってくる。ある意味、地元の人たちだけの「濃い付き合い」がよくもわるくも堆積していた町の人のつながりが、今回の地震によって「ひび割れ」を起こし、そこに「よそ者」が新しい風となって吹き込むことによって、これまで通りの町のあり方ではない、何かもっともっと違った形での真の意味での復興を求める人たちが集まれる場となっていくのではないかという予感がした。実際には道のりは「果てしなく遠い」のではあるが、そうしたものへと変わっていかなければ、「何も変わらない」という人びとの怒りのような熱気が、ひしひしと伝わってくる夜であった。ちなみに、過疎の村でじいさん、ばあさんたち地元住民の衣食住の手伝いなどからかかわっていた公害反対運動当時の経験を思い出した。余談ではあるが、この時の反CTS闘争や核再処理工場誘致阻止闘争は、さまざまな実力闘争の結果、勝利することができた貴重な体験である。さらには、越冬闘争や「仕事よこせ」の闘いや日常的な炊き出しや机出し―労働相談の経験が、自分のなかに下地として蓄積されていて、こうした場にもすんなりとうちとけ、リラックスして愉しんでいる自分が心地よかった。行政がまるで住民の声を聞こうとせず、個別の要求を汲み上げるシステムもないことへの怒りがぶちまけられる。下水なんてありゃしないのに、「下水料」の徴収に来たり、地震のせいで壊れた借家の「弁償」を何十万も請求するような大家さんがいたりという、非常識な話も満載だ。また、「まだ使えるのでもったいない」と寄せられる電化製品などを、必要な人にまわしてあげたりもしているそうだ。そうしたことを、行政は一切しないので、「フリーマーケットをやろうか」なんて話も出た。さまざまな「慰問」についても話しが及び、「避難所にキムタクや石原軍団が来て、避難者がそれに浮かれているのをいいことに、何もしきらん行政がサボっている」。そういう人ばかりではないであろうが、天皇が来て、手を合わせたり、涙を流したりする被災者のことを思った。「石原軍団は避難所内の人だけに整理券を配り、外の人は締め出した」「相撲取りのTは腰が低かった。チャンコをいらないと言ったら、『写真だけでも』と言って、いっしょに写真を撮って、その写真をもらった」。みんな、自分たち被災者に目を向けているのか、単なる人気取りかをかぎ分けている。この町には、右翼だって炊き出しをしているのだ。避難所の大組織のボランティアの態度が「横着」(偉そうにふるまうこと)という声も聞かれた。その点、歯に衣を着せることなく地元の人たちが本音をぶちまけることができるAさんの人柄と細やかな気の配りに、三〇年余りのさまざまな被災地における被災者である地元住民との交流の実績というものを垣間見た気がした。
こうして、被災地ボランティア第1日目は、有意義で気持ちのいいものとして、幕を閉じる。Aさんも、「まず、身体を使って動いてみること。いろいろな心配事も、実際に来てみたらどうってことない。壁は、自分で作っている。とりあえず現場に来て見ること。実際に自分の目で見て、人の言葉に耳を傾けて、それぞれが何かを感じ、考え、『また来よう』となったらいい。『何とかしなくちゃ』という気持ちをもっているかどうか」と言っている。「おれは誰かに好かれようと思ってやっているわけじゃない。(被災者もボランティアも)誰もがきもちよくなれるならいい。それには、『安全第一』。30年も何千人の人を使って、1人もケガをさせていない」という自信が、決していやみな自己顕示ではなく、自然の感情としてあふれているのが伝わってくる。おやすみなさい。
〈第2日目〉
6月25日(土)、朝六時起床。簡単に食事を済ませ、さっそくパトロールに出る。この日も雨のため、車でまわる。前日は暗かったため、大きな道路だけをまわったが、日中は道路状況も目で確認することができるので、細い道にも入っていく。ガレキや土砂がせり出している車の幅いっぱいの道などを慎重にぬける。文化会館ウラの小さな川沿いなどは、とりわけ被災状況がよく見えるため、益城町のホームページにも写真が掲載されている。その家の荷物の移動―整理の作業をAさんたちは、やっていて、3日目(次の日)に再び家主さんと会って話しをした。写真掲載は、無断で行なっているとのことである。こうした写真の掲載やホームページやフェイスブックへの投稿についても、Aさんは、注意を呼びかけている。ちなみに、本稿は、「ウソを書いているわけじゃないから」と、Aさんの了解を取っている。
大きな川沿いの土手もえぐれ、次に大雨がきたら道路が陥没し、二次災害の可能性がある。実際に地震では生きのびたのに、二次災害で亡くなっている人たちがいる。今回の大雨で新たに土砂崩れが起き、危険な状況になっている場所を発見したら、Aさんは、すぐ役場に連絡を入れている。役場に対する交渉もお手のもので、町の中心的交差点にあるBさん宅が、崩れて道路に倒れ込む危険があるにもかかわらず、放っぽりっぱなしにしていることでかけあい、きちんと囲いを作らせた。「マスコミが知ったらどうなのでしょう?」というように、相手の「きちんとやっている」という体裁だけの建前の姿勢に、一番グサッとくるように話しをする。Bさんが何度頼んでも、一切うけあわなかった役場が、すぐに動いたということで、この日に「お礼」に行ったところ、プレハブの建物にいた10人近くの役場の職員たちは全員立ち上がり、緊張した面持ちで「お礼」の言葉を聞いていた。役場の業務は、分散して建てられているプレハブで行なわれ、土日以外も24時間の泊り込み体制がとられている。個別の「苦情」として扱われるさまざまな要望については無視されるのが常である。誰もの共通の要求として、行政を動かすような地元住民の団結が必要であるが、その点についての難しさも、三日間というわずかな時間にもかかわらず、垣間見ることができた。とりわけ、「村八分」を恐れる地域の人づきあいのようなものを、ついつい見てしまっていた。いがみあっていると言うか、うまくコミュニケーションがとれていないお隣さんが、ボランティアを通して和らいでいく様とかを見た時、何か本当の意味で「役に立てるんではないか」という、自分たちの存在のおもしろい位置というものを再確認した。このことは、私にとっては中途半端に終わった先ほどの公害反対運動の経験にも結びつく面でもある。親戚どうしが、賛成派、反対派として、時には血を流すまでにぶつかりあった熾烈な闘いをもたらす、公害企業と国の責任は、うやむやになり、しこりだけが残るといういやな結末は、二度と味わいたくはないという気持ちである。資本主義と国家の責任をこそ白日のものとして、そこでの闘う団結形成が、どこにあっても重要な課題だなあという気持ちを強くしてしまった。