全労交顧問・佐久間忠夫氏を追悼する

  全労交結成集会で発言する佐久間氏(2012年6月)
  全労交結成集会で発言する佐久間氏(2012年6月)

全労交顧問・佐久間忠夫氏を追悼する

 

全労交呼びかけ人一同

 

 7月10日、午前6時40分、国鉄闘争を先頭で闘い、2012年の全国労働組合運動交流会(全労交)結成の際には、代表呼びかけ人を務められ、2014年からは全労交顧問であった佐久間忠夫氏が前立腺癌により、大田区の病院で逝去された。1931年横浜市生まれ。享年85歳であった。

 氏は、1945年4月、尋常学校高等科を卒業後、14歳で国鉄に就職し、新鶴見機関区に配属され、機関助士として「罐焚き」から〝国鉄人生〟を始められた。氏の労働組合運動は、「国鉄第一次人員整理(10万人首切り)」攻撃の最中の1949年に、国労横浜支部の新鶴見機関区職場委員から始まった。その後、1956年の砂川闘争、60年安保闘争時の京浜東北線のストライキ、1970年の運賃値上げ反対スト、1971年からの「マル生(生産性向上運動)」反対闘争、1975年のスト権ストなど、「戦後労働運動」の結節点的な闘いの渦中に身を置かれた。

 1987年4月の「国鉄分割・民営化」攻撃の中で、氏は「JR不採用」―新橋清算事業団配属とされた。1990年4月、清算事業団からの「二度目の解雇」攻撃を受け、以来、「国労闘争団・一〇四七名」の一員として2010年6月の「政治和解」まで国鉄闘争を先頭で闘いぬいてこられた。

 全労交は、2011年12月に開催された第30回反安保全国労働者研究交流集会で、氏によって発せられた呼びかけを受けて、2012年6月に結成された。全労交の「結成宣言」は、「『総資本対総労働』の闘いとして『三井・三池闘争』以来の日本労働運動の『天王山』の位置を持っていた『国鉄決戦』は、『政治解決』に国労、建交労などの労働組合が身を委ね、決戦を決戦として闘うことなく敗北した。闘うことなく敗北した『二・一ゼネスト』中止の教訓は活かされなかった」としている。これは、「二・一ゼネスト」前夜には、すでに国鉄に在職しており、この「二・一ゼネスト」に触発されていた氏の「『二・一ゼネスト』中止が現在の『決戦を決戦として闘わない』労働運動につながっている」という総括を共有して発せられたものだ。氏は、「たとえ『二・一ゼネスト』が占領軍によって鎮圧されたとしても、その敗北の総括に立って新たな闘いの方針が確立されたはずだ」と言われていた。

 氏が労働組合運動の組織と闘いを作っていくうえで強調されていたのは、「自分で考え、行動する労働者が作る労働組合が本当に強い労働組合だ」ということであった。また、氏は、「職能主義」にもとづいた国労からの動労の分裂に対決してきた教訓をもって「本工主義」労働運動を批判し、山谷の寄せ場・日雇い労働者の闘いに注目し、越年・越冬闘争や夏祭りに参加され、入院中も今年の山谷メーデー集会まで連帯メッセージを寄せられ続けた。氏は、「『戦後労働運動』が現在の『非正規雇用』労働者の不安定雇用、生活苦を生み出した責任を取らねばならない。そのためにも全労交が頑張らねばならない」と繰り返し言われていた。

 われわれは、哀悼の意をここに表明するとともに、氏の遺志を引き継ぎ、労働者階級の解放にむけた闘いにさらに邁進することを明らかにし、追悼とする。