熊本被災地ボランティア雑感

 熊本被災地ボランティア雑感

 

 福岡・築港日雇労働組合 鈴木ギャー

 

いよいよ、作業開始だ。「ボラセン」だと集合時間が遅く、しかも割り振りやさまざまなミーティングなどで時間を食い、実質の作業時間はわずかなものになっている。この点に関しては、「朝7時から夕方6時までの作業」というのが、「長いのか?」という意見もあるだろうが、実際は「ケガせぬように」と、充分すぎるほどまめに休憩時間をとっての作業である。しかも、普段は絶対に味わえない、人との交流を含めた経験に、時間はあっという間にたってしまう。一番体力がない人に合わせ、全体が一斉に休憩を取るというやり方は、越冬などの作業でも同じであろう。またそれぞれの適材適所で作業内容を割り振り、一人だけががむしゃらになってしまうことのないように、全体で動くように心がける点も同様である。この日の午後の作業で、ボラセンが「雨のため作業の全面中止」となったため、四国からやって来た人が「作業させてください」と顔を出し、がむしゃらに動こうとした。「一人だけで無理をしないで、みんなでやろうよ。そのほうが安全だし簡単だよ」と、私のほうから声をかけたが、以前は私も越冬などの作業では、この四国の彼のように、一人で夢中になり、よく注意をされていた。Aさんは、そっと私に「ああいう働き方をする人は、『自分は仕事が出来るんだ』と思っているんだよね」と耳打ちをした。ちょっぴり、苦笑をしてしまった。

 昼飯は、前日の夜に立ち寄った「屋台村」で簡単に済ませた。Aさんとしては、地元で営業している個人経営の店にできるだけ金を落とすようにするという考えであり、すでにいくつもの店の人たちと顔なじみである。「屋台村」は、クーラーがガンガン効いて、汗びっしょりの体には寒さがこたえた。マスコミも多数入り込み、にぎわっているので、早々と退散した。ここで同席した夫婦の方たちは、家は建ってはいるが「赤紙(全壊)」判定で、車の中での生活を強いられているということである。「腰が痛くなって、医者通い」と言っていた。その当時は、「逃げるのが精一杯」と話していた。「外にいるほうが安心」ということで、はじめは登山家のNという人が総合体育館裏の敷地に建てたテントで暮らしていたそうであるが、これは、「5月いっぱいの撤去」を行政がせまって、今の車暮らしになったそうだ。「おにぎりとパンばっかり」と、久しぶりに口にする温かい食事に喜んでいた。Aさんは、「最初は(配られる)おにぎりでもありがたいけど、その内『またカレーか』となってしまう」という指摘をしていた。そう言えば、Bさんの「お母さん」も、5日に1回、町が配るコンビニ弁当をもらってきた時、「同じのばっかりで飽きるし、食べたくない時にも、もらっておかないと、くれなくなるのでもらってくる」と言っていた。たしかに、もらってきていた大手コンビニの同じような弁当を見て、「こればかりではたまらないだろうな」と思った。この日だったか、震度3の地震があったそうであるが、作業に夢中になっていたせいか、まるで気付かなかった。ここでの「地震警報」は、同時か遅れて出されるそうである。Aさんいわく、「S波(だったかな?)を感知する装置だけど、直下型地震じゃS波が出ない」とのこと。

 別の話しではあるが、Bさん宅は借家のため、全壊となり住めなくなっているにもかかわらず、1円の義援金ももらえないそうである。また、赤紙が貼られている「全壊」の評価の家と黄色の「半壊」の家とでは、義援金の額が違うのだそうである。「半壊」の家であろうと、二度と住むことはできず、人間の手でわざわざ壊すしかなく、さらに新築するとすれば、余計に出費はかさむにもかかわらず、こんな按配なのである。余談ではあるが、「黄色」の紙が貼られた家がつぶれているのを見て、不思議に思った私の質問に、Aさんは、「素人みたいのが判定しているから、またつぶれたのだろう」と、こうした事態を受けて、急遽「判定」の判断をする者を増やしたことを皮肉っていた。

 Aさんは、「ボラセン」では引き受けることのできない「家屋内への立ち入り」を必要とする作業などを引き受けている。家のなかに置き去りにしていて、家主が必要としている家具などを引き出したりする作業である。この日の作業の合間を見て、「ボラセン」の存在を知らなかった次の日の依頼主を「ボラセン」に連れて行き、申し込みの手続きをした。大体が電話による申し込みだそうで、本人が目の前にいるにもかかわらず、手続きの申し込み書に職員がいちいち聞き取りをしながら書き込もうとした。センターのボランティアの人たちでも行なうことができる屋外の物資の仮置き場への搬入の作業を申し込むための手続きである。Aさんは、同時に、もっと「ボラセン」とAさんとの作業の連携を取りましょうという提案も行なっている。さらに、せっかく申し込みにきたボランティアの人を、ぎりぎりの人数のみの申し込みで打ち切って帰してしまうのではなく、一つの現場に多めに入ってもらうようにすればいいのにという提案を行なった。そうすれば、仕事もはかどるし、ていねいにできるという提案である。しかし、「ボラセン」の職員も短期間のローテーションで帰ってしまい、口頭による提案だけでは徹底することはないと感じられた。団体交渉的なきちんとした場での公の話し合いが必要だなと感じた。「ボラセン」に提供されている工場脇のグラウンドには、大手自動車メーカーなどから提供されている軽トラックが50台ほど並んでいる。「遊んでいる車を、必要な時に貸してもらえないか」というAさんに対して、町の職員はいい返事をしない。こうした車にしても、「借り物だから、汚さないように使うこと」などという、訳の分からない制約をつけて、使いづらくしていたりもする。グラウンドには、神戸、なにわ、山梨など、県外のナンバーの2トントラックが支援車両として、ズラーッと並ぶ。「ボラセン」の職員も、地元は2人程度で、あとは佐賀など他所の自治体からの派遣である。グラウンドは雨でグジュグジュのため、せっかくブラシで長グツを洗っても、何の意味もない。このセンターでボランティア活動用の高速道路無料の証明書を発行しているが、「6月いっぱいを7月10日まで延長した」ということである。だが、まだまだ手付かずのままの家屋での作業をしなければならないにもかかわらず、この程度の措置で、これ以降は、すべて「自腹」で来る者だけに限ろうということであるのならば、ボランティアの数は、半減どころで済まなくなるであろう。それとも、福島の除染をはじめとした「復興作業」同様、あとはゼネコンの利権あさりのために回そうというのであろうか。

 3日間という短い期間のはずであるが、中身の濃い時間を過ごしたため、記憶が定かでなく、印象に残ったことから書いているので、話は飛ぶが、この日の朝、避難所にいる依頼者の方を迎えに行き、依頼者の自宅へ向かう。ここの避難所のトイレそうじは、他所の避難所で集団ノロウィルスが流行ったことから、除染作業のような白カッパを着こんで、二重手袋で行なっている。肺炎も流行ったとのことである。「歯を磨かないせいだ」と話されていたけど、そんなことってあるのかなあ。あんまり歯を磨かない身としては疑問ではあるが、聞き流すことによって自己正当化を図ろう。

 仕事そのものは、依頼者の必要な荷物を家のなかから運び出し、仮置きしておく作業である。何日もかかることから、この日は仮置き場作りだ。坂道になっている家の下流側にあるガレージのそうじと整理だ。泥が流れ込みツルツルして滑りやすく危険だ。Aさんは自分から道具は持って行かず、そこにある物を探し出し、それらを工夫して使うようにしている。何か宝探しと頭の体操をかねたゲームのようでもある。すぐ横を流れている小川から水を汲んで床を流す。土台が傾いてしまったため、奥に水がたまる。ブロックに穴をほがすことにした。見事、水の道ができて、作業がはかどり、依頼者から「地震の前よりきれいになった」というよろこびの声が聞けた。もちろん、いずれはここの駐車場も壊すのではあるが・・・。さらには、さまざまな物を取っておきたくても、収納場所がないために、あきらめている人も多いという。わざわざ、コンテナや駐車場を借りて、荷物を運び込んでいる人の姿も見た。みんな、それぞれに必死だ。

午後には軽トラックで、ここで出たゴミを捨て場に持って行き、プラスチック、木片、電化製品、金属等々に分けて降ろす。「ゴミの仮置き場」とされる元益城小学校の跡地だ。雨のためグシャグシャになっている泥の上を慎重に走らせ、各分別品ごとに降ろしてゆく。はじめのうちは、ここもボランティアでまかなわれていたが、今はアルバイトの若い人たちとのことである。見分けはつかない。たくさん群がっているプラスチック捨て場では手伝ってくれたが、他は遠くから見ているだけである。特に、やたらと人数が余っているように見える、職員らしき連中は、遠くから黙って見ているだけである。こんなことのために税金を使って、わざわざ「応援」と称して、他県などから派遣しているのである。本人たちだって、雨の中ボーっとしているだけじゃ、おもしろくなかろうにと思ってしまう。ここにゴミを持ち込むには、「罹災証明と免許証のコピー」が必要なそうで、それらを持って来ていないAさんは、職員との交渉で手間取ったが、OK。震災と関係のない産廃業者などが、金を浮かすためにゴミを持ち込むのを嫌っているのだろう。ちなみに、金属類の買い取り業者の所には、「復興支援」とか書かれた業者のトラックが、ズラーッと並んでいた。北九州市と見栄の張り合いをしている福岡市も、確かわずかパッカー車4台分の「ゴミの受け入れ」をしているんじゃなかったかな。屁の突っ張りにもならないとは、このことだ。

福岡市長の高島は、われわれの「仕事よこせ」の要求を聞かないばかりか、「アベノミクス」の「創業・雇用創出特区」で、「解雇自由化」「残業代ゼロ化」「生涯非正規化」の先頭を走っている。戦争のために、改憲を推し進める「日本会議」の集会に参加し、「『日の丸』を掲げるのは当然」とする発言をした。一方では、これまで市が後援をしていた戦争に反対する絵画展を、「特定の主義主張」があるとして、後援を取りやめにしている。福岡市が、海外から多くの観光客を呼び込み、ちょうどこの期間行なわれた、「ライオンズクラブ世界大会」のように、さまざまなイベントを大々的に行なうことで、金を落とさせるという動きにも注意が必要だろう。このような派手派手しい動きの陰で、須崎公園における「放火」と思われる事態に示されるように、野宿者への襲撃などが頻発する状況が深められていることに、警戒をしなければならない。このことは、被災地における、被災者への視線にも重なることがあると思う。Aさんが「3・11を忘れない」と帽子に書き、「被災者を置き去りにするな」と、常々発信している姿勢こそ大切なものだと思う。 この日の夜のパトロールの途中、10時をまわった頃に、わが福日労の強力な支援者が到着。これまで何回も来ている人たちが、「一回も歓迎会なんてされたことがない」と言うなか、大いに歓迎されていたのは、若い(ように見える)女性だから?

 

〈三日目〉

 この日はひさしぶりに晴れたために、歩いてパトロールだ。ボランティアのための仕事依頼を呼びかけるビラを持って、はじめての人には声をかける。道行く人には、全員であいさつをする。とりわけ、むやみやたらと写真を撮らない(写真を撮る場所はAさんが指定してくれる)、場のふんいきにそぐわない笑い声をあげないなどは、被災した人たちの気持ちに配慮した最低限のマナーであろう。いわば、われわれの人民パトロール(人パト)のようなものだ。地べたに寝ている野宿の仲間を大勢で取り囲み、上から見下ろすなどしないとか、大声で関係のない話をして盛り上がったりしないとか、寝ている人やテントのなかには、まず小さな声で声をかけるというのは、人パトの鉄則である。福岡においては、寄せ場が解体状況にあり、目につくような野宿の仲間も減り、ほとんど人パトをする機会がなくなってしまったが、こうした気配りは常に忘れてはいけないものだなあと、改めて思い起こし、肝に銘じたものである。Aさんは避難所などで一人ひとりに声をかけ、ビラを手渡している。自分の家についてさまざまな心配を抱えるこうした人たちが、新たな依頼者として作業を依頼してくるのだ。また、さまざまな日常的な不安や不満などにも耳を傾け、出来ることはすぐにでも動く。このフットワークの軽さがさらなる人との結びつきを作り出し、またそれを強めていくのである。日雇い労働運動とは違うが、やっていることには同じものを感じる。危険箇所に張る赤テープを持って行ったが、この日は使わずじまいであった。