熊本被災地ボランティア雑感
福岡・築港日雇労働組合 鈴木ギャー
パトロールを終え、作業にかかる前に、全員で輪になって一人ひとりが提案するストレッチで体をほぐす。この日は、パトロール前に福岡からやって来た2人の仲間が合流している。2人のキャンセルが出たため少なかった、初日の4人から一気に7人である。女性陣が圧倒的に多い。われわれのカンパの呼びかけに応えてくれる人にしても、圧倒的に女性が多い。被災者に寄り添う気持ちは、女性のほうが強く持っているように思える。戦争反対の日常的な取り組みにしても、辺野古の工事を請け負う大成建設への月一回の抗議行動にしても、反原発の息の長い抗議行動などにしても、女性陣のほうが面子や建前とはかかわりのない、ストレートなこだわりを強く持っているように感じてしまう。そして、「自分でもできるかな?大丈夫かしら?」という不安を抱えてやって来て、一度作業を経験して、「何とかなる」と自信をつけ、やみつきになり4回も5回も来ている人たちがほとんどだ。こうした人たちが「おもしろいから」と、新しい人を誘って輪が広がることを、Aさんは、喜んでいる。Aさんは、ボランティアの醍醐味にのめりこみ、仕事をボランティア中心でできるようにしてしまったようだ。「無宗教・無党派」として、政治色とは一線を画しているAさんとは、まだまだ話しを深めなければならない面はあるにせよ、腹を割って気楽に話せる彼の魅力は大きい。もちろん、彼は、「オリンピックに金をかけるより、福島の復興が先」というように、安倍のデタラメを見ぬいている。平日は、工場で働き、毎週、被災地に足を運び、被災者と向き合い、濃い付き合いをしている彼とは、今後ともきちんとした付き合いを、長く続けていきたいと感じている。
作業は、避難所にいる地元の青年を含めて、総勢8人で行なったことから、午前中でほぼ終わった。散乱するコンクリート片のガラや割れた瓦、割れている窓ガラス、鉄などの金属類、石膏ボード、プラスチック類などや木片、さらには家庭ごみも分類して仕分けし、崩れたブロックから道路にはみ出している土を処理し、掃除をする。家主が必要とする洗濯機などを入口のない玄関の中に置いて、タンスなどでふさいで作業終了だ。玄関のアルミサッシは、金にしようという見ず知らずの業者風の人たちが家主に声をかけて持っていった。この家はきちんと建っているように見えるが、ガラスは割れ、いたるところが破れ、中は雨ざらしで、「全壊」の評価である。二階や床の上を歩く際にも、踏み抜かないように細心の注意が必要である。私の作業中に依頼主が声をかけてきた。「どぎゃんもこぎゃんもいかんです。まさか自分が被災者になるとは、夢にも思ってなかった」「たとえ金を持っていても、またこの土地に家を建てていいものかどうか。また地震が来たらと考えてしまう」と、胸の内を明かした。そうした家主の虚脱状態につけこんで、アルミサッシを掠め取っていく人たちに、Aさんが見かねて家主に耳打ちをしてほどほどのところで、やめさせていた。すべてつぶして建て直すとは言え、サッシを取り除けば、ますます無用心になり、火事場ドロボウのような人たちが増えることで、被災者の心労が倍増することへの配慮であろう。
Aさんは忙しく、福岡のほうから寄付金を持ってきた団体の案内をしたりして動きまわった。その間に少しだけ残っていた作業は、われわれだけで終了させた。Bさんの暮らす駐車場の入口にバス停がある。92歳の近所のおばあさんがやってきて、バスに乗って「老人いこいの湯」に行きたい旨を告げた。ところが、普通の大きなバスは運行していないのである。橋の重量制限や道路が狭くなっている所があるのだ。Bさんの「お母さん」が、携帯で問い合わせたところ、近所のスーパーの前から小さな乗り合いが出るが、3時間近く待たなければならない。おばあさんが頼んできたので、Aさんの了承を受けて、おばあさんを送ってあげた。おばあさんは、われわれが立ち去るまで、頭を下げ続けた。この町営の浴場は、今は、航空会社が無料で開放をしているが、足がないと不便な場所である。この近くに仮設住宅が開設されたということで、「お母さん」が見に行こうと誘った。老人ホームの裏に、34戸(もうちょっと多かったかな?)ほど入居できる住宅が並ぶ。何家族かは入居済みではあるが、集会所はまだ建設中である。「飯野団地」ということで、「いい(・・)の(・)かなあ?」と言ったら、「お母さん」が「これでいい(・・)の(・)」と言った。他所の仮設の入居法と違って、ここはこの周辺の人たちがまとまって入れるようにしているとのことであり、少し安心した。生活保護を取ったとたんに、急激に老け込んで「孤独死」してしまう多くの野宿の仲間を見ている身としては、そのようなことを心配していたことを、「お母さん」は察して、切り返してくれたのだ。
この日は、前日の依頼者の家の荷物の片づけをする予定であったが、Aさんも忙しく、この日の早朝に来た2人の帰る時刻に合わせ、作業をやめて先ほどおばあさんを送った無料風呂に入ってから帰ることにした。5時までで閉めるということで、ふだんなら絶対に入りに来れない時間である、受付ぎりぎりの4時半に貸切り状態で入浴した。私たちのすぐあとに、軽の車で寝泊りをしながら四国から九州を旅してまわっている青年が入ってきた。彼は、この日、御船のボラセンから仕事に行ったそうである。益城のボラセンでは、「仕事がない」と帰らされてしまう人が多いのに、御船のほうはまるっきり人手不足なのだそうである。Aさんは、「ボラセンどうしで連絡を取り合って、融通しあえばいいのに」と言っていた。
〈さいごに〉
福岡の地に帰ってきて、選挙一色でお祭り騒ぎのようになっていることに、違和感を持った。在日朝鮮人や野宿の労働者のように、一票を行使できないというわけではないが、被災地は置き去りにされたままであるという感がぬぐえない。「選挙どころではない」という人びとが、政治にかかわることができる道を、自分たちの政治を自らの手にすることができる道を切り拓いていきたいという思いを強くした3日間であった。
仲間たちが見るテレビではバラエティー番組ばかり。「21世紀の革命児」なんて、何のことかなと見てみると、クラシックのコンサートの宣伝。福島の人たちも、こうした違和感、すなわち日常的なギャップにさいなまれ続けているのだろうと、改めてこのような世の中を、根本から変えていく闘いと運動、それをやりぬく団結の重要性を、ひしひしと噛みしめている。
「お母さん」は、近所の仮設トイレが汚くて、いつもそうじをし、トイレットペーパーがすぐなくなるので、いつも自分で補充している。こんな人たちがこの町を支えてきたし、今も支えているのだなあと思った。最後に、「自分のことを守ってくれるのは、他人(ひと)(だから、他の人をだいじにしよう)」という、「お母さん」の名言を載せて本稿を閉じるとしよう。